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Fellatio Destination
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エリック・マコーマック 「パラダイスモーテル」
マコーマックという作家をこのパラダイスモーテルを読むまでまったく知らなかった。
柴田元幸が帯に紹介分を書いているのだが(もう二度と紹介分は見ないと言ったのに!)予備知識的には「あぁそういった類いのものか」くらいのもので、別段期待も何もなかった。
実際にこんなにも無意味にグロテスクでどこにも帰結しない、その上で文学然としている良作は久々だった。
テイストは阿部公房の作品雰囲気に似ていて「この話はどこか嫌なところに落ち着きそうだ」という期待を常に持たせてくれる。
作品から香り立つ神経質で歪んでいる感じはサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」に通じるものがあるようにも感じる。
あの作品も正に青天の霹靂といったラストを飾るが、パラダイスモーテルもまさに、といった文学的要素に満ち満ちている。
僕はあまり文学的ではない、俗にいうエンタメ小説というものは好まない。
それが俗世的だとか、高尚ではない、ペダンティックでもないといった観点からではなく、ただ偏に、このブログでも愛好者がいるように、映画に勝るものではないと考えているからだ。
エンタメ小説や映画というものは、製作者の意図、采配にもよるが、他者との共有というものに文学との相違点があると考えている。
用いられる記号は単純にして明快で、目にするもの、耳にするもの以上のものはない。というか多分映画的文脈ではそれは廃さなければいけないもののように見受けられる。(そこを逆手にとってというものも当然あるだろうが)観客はアウトラインを辿って歩く。そうして観劇後見たものに対して会話が起こる。勿論それだけではないのは百も承知だが。
文学はその正反対に位置している。
記号は名前だけであり、情景や心象は地の文だけだ。思い描くものは各々で変容し、定まらない。
というか定まらせるものではない。
これがこうだという結果が提示できないのが文学だ。
物語の終わりは、終わりではないし、はたまた始まりでもない。その揺らぎがエンタメ小説や映画とは大いに異なるところであって、そしてその揺らぎの幅は個人が解釈するところだ。
故に文学はほとんど共有することが出来ないし、しても意味がない。そして意味がないことは殊更に文学的だ。
こんなトートロジーを用いることもないほどに、つまり文学はオナニーであり、エンタメ小説の様にセックスではない。
個人の理解してほしいのかしてほしくないのか解らない作品を通じて、読者はナニをしごくのだ。
それをやれ抒情的だ、観念的だ、通俗的だなどと喚いてみても仕方のないことで意味のないだ(これはつまりその行為自体も文学的である!)。
色々なオナニーの仕様があって、様々な偉い人が自分のオナニーを論じているだけだ。だからそれを気にすることもないし自分一人で大いによがればいい。文学とはそういうものだ。
と、僕は考えている。
だから僕はセックスよりもオナニーが好きだ。
パラダイスモーテルはおかずにもってこいだった。すぐにまた読んでオナニーが出来るほどにはおもしろい。
もし興味があって、ちょっとくらい黄ばんでいるのを気にしないというのであれば、お貸ししますのでお声をかけてやってください。
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ロアルド・ダール「あなたに似た人」
おもしろい人間が二面性を持つように、おもしろい作家と言うのも二面性を持つものだ。
というのは誰が言ったかはしらないが、そう誰かから聞いたことがある。
そうかな?と疑問に思ったならば、ここはひとつあなたがおもしろいと思う人を思い浮かべてみるといいかもしれない。
きっとその人はよくわからない所があるひとなのではないだろうか。

ダールは児童文学とダークでアダルトな奇妙な短編集を得意とする作家でありんす。
意外にもというか、当然というか僕の中では児童文学、この際は寓話とダークでアダルトというのは密接などという言葉では足りないくらい、むしろ同義でいいんじゃないという面をもちあわせたジャンルだとおもっちょります。
グリムであったりイソップであったりと寓意に満ち満ちた作品というのは大人が楽しめるものでありますし。
かの有名な赤ずきんももとの口承ではえらいエロいはグロいはで大変だったと、更には童話を下敷きにした現代の物語、作品もやはりどこか物憂げで暗く、寂しいものが多いと思います。
ですがやはり一般的に子供が楽しめるものと大人が嗜むものは分けるべきではあるので、そこは設定をちょちょいと変えて料理するのが世の習わし。
なので表面上はやはり背反するジャンルを描く作家がそこかしこに存在するというわけだったりするんだろうなと思う次第です。
そしてダールもそれに漏れない作家であって、しかもチャーリーとチョコレート工場の原作者だったりします。
二三年前にはファンタスティックMrFOXという名前のアニメがやっていましたがこれもダールの児童文学が原作だったりします。
意外と知らず知らずにダールに触れているのです。
驚き。
そしてそのダールの珠玉の短編集が「あなたに似た人」
そもそもこの表題はNHKの大人気番組「お母さんといっしょ」の中のショートアニメ「こんなこいるかな」の大人版であることを多少なりとも意識せざるを得ませんが、しかしこれはまったく「こんなこいるかな」的なものではなく、こんな人は絶対にいてほしくないし、いるにはいるだろうけどお近づきにはなりたくないというのが正直な所だと思います。
そもそもこの短編集ハヤカワから出てる時点でおもしろくない筈がないと思うんです。

妙ちきりんな出版社ビイキなわけですがハヤカワが一番好きです。
何故ならペーパーバックがかっこいいから。
でもペンギンブックスのデザインが一番良い。

さて、そんなダールの短編集あなたに似た人収録でもっとも有名であり、かつ出来の良い一編
南から来た男がやはりせちがれも一番すきでございます。
カイジのあの名勝負もきっとこの作品にインスパイアされたのだろうと勝手にそう思ってます。
実際にあんな奇怪な老人に、あんな賭けを持ちかけれてもせちがれはのったりはしませんが
それでも一瞬考えてしまう程の報酬で、なにかの嘘か冗談かと、笑って許してくれるのではないかと、
そんな思いも一瞬で吹き飛ぶようなオチ。
やー見事の一言。そこまで想起させられたらほんとまいっちゃう。
文字だけで現された奇怪な人物の奇特な行動は想像力を否が応でも掻き立てられて不気味さ倍増。
視覚的、聴覚的に頼らずにここまで演出できるのはなかなかお目にかかれないと、そう思います。
日本人でもかの有名なロリコン宮崎駿もダールのファンであるらしいので、未読の方は是非是非一読あればよろしかろ。
読むべくして、読む事になった。 「不思議な物語」ゾラン・ジフコヴィッチ
今までの読書遍歴を見るに、私というニンゲンは一般的にいう(一般的というものがこの際に於いて有効に機能するのであれば)オモシロイ、という共通幻想の中にはないのだという事を思い知る。
これは偏に私が一種変わったニンゲンであるとか、人よりも優れたニンゲンであると示唆するものではない。
単純に紐解いていけば、そういったマスで評価されていない物に、美しさを感じ、好んでいるだけに過ぎない。
それは団体行動にマッチしないことに幾分似ている。
なのですべからく、趣向は年と共に変じ、ごく当たり前な顔をして、一貫性のない物を好んできたように思う。
それは自分の世界の変遷であって。自分自身を投影する鏡に他ならない。
例えば10代の初め、私は村上春樹に出会い、その世界に没入する。
周りの友人の中に興味を持っている者が居なかったというのが、読みたいという欲求に一番強く作用したように思う。
何故ならその時期にはもう村上春樹は文壇での地位を確たるものとしていたからだ。
無論当時の私はそれを知る由もない。
それから数年経て、環境も変わり、世界は一変する。そうして私は村上春樹を捨て、フランスの作家ジャン・フィリップ・トゥーサンに傾倒する。
あらかた国内の文学について知った気になったからである。当然の帰結と言えよう。
しかしここで悉くを否定するかのように、トゥーサンの書く物語は理解出来なかった。
それでも理解しているかの様な顔で、好きな作家と上げていた。お粗末な話だと思う。
しかしてなお、私はわからない本、誰の話の端にも上らない本を好んで読んだ。自分の世界が広がりをみせても、だ。
そうして私は次々と理解不能な本を探すハメになる。
ボルヘス、コルタサル、ジョイス、安部公房、池澤夏樹(声優、池澤春菜の実父)阿部和重、円城塔。

詰まる所私の遍歴は、現時点で理解できない物への憧れ。だったに違いない。
世界が広がり、ある程度の事を理解出来るようになった今でも、未だ読書の魅力が衰えていない事を鑑みるに、それは自分が蒙昧であり、無知であることの証左に他ならない。
しかしながら、こういった読書遍歴を顧みて、はたと気付くこともある。
私の趣向は、すでに世界に認知されている物であるということだ。
常に私を取り囲む世界から逸脱しようとしていた私は、どうあがいてもその世界に包囲されて、され続けていたようだ。
なんの脚色も嘘も方便もなく挙げた好きな作家は、全てポストモダンというカテゴリに分類され、更にはスリップストリームというジャンルの境を破壊する事を主とした作品を私は好むらしい。

類型的に、自分がいったいどこの組に属するのかという事を、紆余曲折を経てようやく知ることになった。
それは自分が大人になったであるとか、青春期の終わりであったりとか、好きな表現を引用すれば、自分の癖に折り合いをつける事ができた。といった感じだ。

そういった事を踏まえた上で、今回の作品ジフコヴィッチの「不思議な物語」を書くとすると。
やはりそれは、読むべくして、読んだ。というのがうってつけではないかと思う。
ウロボロスを連想させる一話目の「ティーショップ」
夢と現実、古代と現代が対を成して、そして小さなことが起こる「火事」
オカルティックな未来予知と偶然を無味乾燥に描いた「換気口」

正直な所、新世代のボルヘスというには物足りない。
というのが私の感想だった。
「ティーショップ」は物凄く美しいと思ったけれど、他二作品のうち「火事」は今はまだ良さがわからない。
「換気口」はタイトルは秀逸だと思ったが、それ以外はわからない。
結局のところ現段階では「ティーショップ」の為だけに買ったようなものであると言っても良い程だ。
他二作品に比べて「ティーショップ」は物語を物語で繋いでいき、そうして主人公の物語とは一体何なのだと思わせる所が素晴らしく美しいと感じた。
そこは如何にもボルヘスティックであり、更には洗練された設定がなお現代的だと印象付けた。
しかしこの一作品だけの為の対価として、この本を買うということは一般的にはオススメできない。
誰かに借りるか、どこかで借りるか、立ち読みで済ますのがより良い方法なのではないかと思う。
或いは誰かがおもむろに話し始めた話がどこかで繋がって、偶然にも同じ体を成すかもしれない。
それを期待してはいけない程、世界は未だ詳らかになっていない筈である。


「迷宮」 清水義範
ミステリ小説と一口に言っても、それはもう膨大な、
両手だけでは数えきれない程の種別があることをご存知でしょうか?
海外ではノックスの十戒、ヴァンダインの20則に始まり、日本ではそれを編纂し、紹介した江戸川乱歩の幻影城。
そこからも発展を続け、このルールに則る形で、あるいは破る形で数多くの作品が世に生み出されているのは発刊数を見ることもなく、想像に難くないと思います。

その中でも私が特に好きなものが推理合戦もの(こういう分類がなされているかはいざ知らず)です。
古くはバークリーの「毒入りチョコレート事件」中井英夫氏の「虚無への供物」、最近では西澤保彦氏の「麦酒の家の冒険」どれも何度読んでも興奮します。
特に虚無への供物はゴシックテイストを基調とした舞台装置を使い、小説中小説という体で死者が蘇りを果たし、犯人を探すという多重構造で、あたかも先ほど見ていた模様がこの瞬間には別のものに移り変わる万華鏡の様な趣きを持っています。更に人物描写も推理に色濃く影響してくる様はクノーの「文体練習」をも彷彿とさせる企みを感じずにはおれません。
しかしながらこうした作品の都合上、叙述をもちいたトリックや単純に目くらまし的な要素を掛け合わせた最近のミステリもどきの様にぽこぽこ生まれていくものではないのも事実です。
そんな大作を渇望して病まない最中に出会ったのが、この今から紹介しようとしている清水義範氏の「迷宮」なわけです。

そもそも清水何某とは誰なのかという人に極めて簡潔に説明をしようとすれば、ものまね作家と言えば何となく想像もつきやすいかと思います。
ものまねと単純に捉えれば何か簡単な、パロったりなんかしちゃってる作家なのかという印象にもなりましょうが、僕の認識では、そうでしたというのが正直なところです。
どちらかといえばミステリを真正面から捉えるのではなく、斜に構えておちゃらけて、それでいて芯は外さない巧妙さを持ち合わせた作家とでも言いましょうか。
腰を据えてがっつり読むぞ。といった作風ではなくて、あぁなんだか暇を持て余してしまったので書店にでも行って一日で読めるカロリー低めのやつでもないかしらん。
といった感じで読む作家。だと思っていました。
こんな説明でどんな作家さんなんだろうと興味を持った方は一度検索にでもかけてもらってタイトルを見てもらえば容易く雰囲気は伝わると思います。
そんな作家さんが、何やら意味深長なタイトルで、あらすじにもいっさいのおちゃらけを感じさせない調子で挑んだこの作品に過度な期待をするなと言う方が無理な話です。
なので大いなる期待を胸に僕はこいつを読了したわけですが、その感想はというと大いにおもしろかったと言っちゃいます。
そもそもこの作品の犯罪には表面的な謎というものは存在しません。
犯罪にはというところに着目です。犯人は物語の最初の最初で判明しています。
じゃあそれで終わりじゃん。というなかれ。謎はそこではありませぬ。
この物語、「私」という語り手が記憶を失っている状態で、ある事件記事を実験治療という名目で読まされていきます。
あぁ怪しい。怪しさ満開です。
その治療を施す医者っぽい風情の人物も、誰だかわかりません。
つまり、物語の現在を型成す主役とその相方の二人が一体誰なのかわからないのです。
さぁもう気になって仕方がありません。読んでいる最中もあぁこれはミスリードされているのではないだろうか?
いやいやこれにはひっかからないぞ。こいつが「私」なのだろう。なんてグイグイ引き込まれていきます。
こういった趣きの話は文章でなければ成立しないおもしろさです。
見えない部分が大きいほど、小説というのはおもしろさがいや増すのです。
事件のあらましについては「私」が読まされている文献を私が読むという形なので、犯人もわかっていることですし、いやおうなしに犯罪はなぜおこったのか?に着目されます。
当面「私」や医者っぽい人は置いておかれるわけです。だってそれは最後のお楽しみなわけですから。
しかも事件は今日的であり、現代社会の病的な犯罪で、その犯罪にまきこまれた人物達の人間性や社会性なんかを浮き彫りにしていきます。その人間性の問いかけがまた話を一段と不気味に深く落とし込んでいくのです。
取り扱われた犯罪なんかは最近もっぱらなりを潜めた感じの、通り魔的な衝動的殺人にとってかわられた感のある「猟奇的殺人」なわけですが、そこはあぁこの手の類のやつね。といった感想が正直なところでした。
孤独に苛む現代の青年が起こしたちょっとばかし考えられないキチガイ犯罪。
それはどうでもいい。ほんとどうでもいい。別にとやかく言う事もないですが、昔っからこういう犯罪はあったし、それを現代社会の産んだ犯罪なんだと声高に喚くのは間違ってはいないけれでも、正しくもないというのが実情ではないのかなと思います。
作者も作中でそんなことを書いていましたし。人は自分の関係しない所で起こった事件に対して簡単な、耳に心地よい、誰もが納得できる答えをチョイスするのですから。
そんなことよりもこの小説が先にも述べた万華鏡的企みをもってして挑んだ作品だというのは、さも今日的な犯罪を描いたふりをして、まったくそうではない別な意図のある犯罪。そもそもそれを犯罪だといってしまってもいいのかというミステリへの逆説的アプローチを仕掛けている事に大いに畏敬の念を感じるわけです。
全てをここに書き記す無粋な行為が出来ないために、持って回った言い方になるのは承知ですが、犯人が犯罪を起こす動機を誰かの恣意でいか様にも変幻させられるぞ。というのが私がこの小説から汲み取ったホワイダニットへの現代的解釈なのではないでしょうかってことなんですよ!
先に述べた通り、人というのはある程度限られた情報や体験のなかで、自分の感じた、見た、聞いたことへ折り合いをつけて生きていくものです。それが正解答かはさていおいて、そういうものだと割り切るものです。
だとすれば、そこに記憶喪失のというまっしろな、何も描かれていないキャンバスがあったとして、そこに人は何も描かずにおけるのでしょうか。
記録された物が織りなす万華鏡が過去のものであるならば、無垢なキャンバスになにかを投じることが、新たな万華鏡になりはしないでしょうか。
私は読後奇妙な感覚を覚えました。

そこにいてそこに非ざるものと、ここにあってここに非ざるものの違いというものがきっと少しわからなくなったからに違いありません。

「屍者の帝国」 伊藤計画 円城塔
今世紀最大にして最高の名作を今日はバカなりに取り上げてみたいと思います。

最高といっても世界で類するものなしという壮大なものではなくて、日本SF界最高というくくりつきですが
そんなもんはあちゃらの国ではなんぼでも量産されている美辞麗句なので気にしません。
最高と言ったら最高であり、鳴かず飛ばずという程ではないにしろ低迷していた日本SF界に耳目を集める作品が
生まれたのは事実であって嬉しい事です。はい。

もはや語ることもないほどに高名となった天才伊藤計画と、なぜ芥川賞を取ったのかよくわからない(もちろんいい意味で)円城塔の共著。
夭逝した伊藤計画の遺稿を引き継ぐ形で書き上げた円城塔とのドラマもさることながら、内容的にもグンバツです。はい。

そもそも伊藤計画は、巧みな情景描写と物語の抑揚、展開と収束の妙がウリな情熱系だとおもっとります。
円城塔は遊び心満載でありながらも文学的な企みを、文学だからこそできる表現を駆使する技巧系。
この二人の共著となれば期待しない方がそりゃバカでしょう。となります。
実際のところ伊藤計画が書いたのは30ページ程で、残りの全てを円城塔が書き上げたわけですがそりゃもう絶句ものの面白さ、睡眠不足必至なわけです。
古今を見れば共著におもしろくないものがあったためしがあるでしょうか。
古くはエラリィ・クイーン、日本では岡嶋二人、別ジャンルでは藤子不二雄。
あぁあとゆでとたまごさん。
そんな有名人と並べても遜色ありませんよ。これは。
そして物語にはSF的斬新なアイデアはありません。19世紀のパラレルワールドな世界には死体復活術が蔓延り。それを使って、あるいは巡って各国が争い、経済的に競い合っている世界。
そしてその礎を築いたのはフランケンシュタイン博士であり、各国の英傑がifの物語を紡ぎあげるのです。
西行法師も考えた古来のアイデアを二人の天才が料理したこの作品に僕はロマンと栄光を感じるのです。
日本のSFは死んでいると思っている方にこそうってつけ。
パスティーシュ満載の遊び心あふれる、日本SFの新たな夜明けを感じさせるこの作品をどうぞ一読してみてくださいませませ。

しかしもし伊藤計画が存命で、この作品を書き上げたなら、どういった作品になっていたか?
なんていう事を想わずにはいられなかったりするんです。でもそれはきっと、未来のフランケンシュタイン博士が成し遂げ、その時に生きる誰かが目にすることができるんしょう。

実に羨ましい限りです。はい。
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