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Fellatio Destination
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おでんも高級メニューに変身
海外からのセレブなお客様を突然お招きしなければならなくなった時の事です。
急なお客様って本当に困ってしまいますね。凝った料理を作るには時間がない…。
仕方がないので板前さんに家に来てもらって“スシパーティー”にでもしようかしらと
考えたのですが、その日はなんと魚河岸が不審火で全焼して無理とのこと。
その時思い立ったのが、「おでん」でした。
ただ煮込むだけのカンタンな料理ですが、盛り付けにはこだわりました。
大皿でイッキに出すのではなく、最初はダイコン、次はちくわ、次はこんにゃく……と
一品一品を、お皿を替えて何度もお出しするのです。
こうするだけで庶民的家庭料理もちょっと高級そうな料理に大変身。
「ジャパニーズ・ポトフです」などと言ったら、皆さん大層感動してくださいました。
前菜からメインまでおでん尽くし。でも、一皿毎に素材が違うから飽きずに美味しく
食べていただけるのです。
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ANAL CUNT 「FUCKIN'A」
Image0002.jpg

アナルカントである。ご存知の通りボーカルのセス・パットナムは
薬物の過剰摂取が原因で他界してしまったので残念ながら本作がアナルカント最後の作品。
まずジャケ、見ての通りモトリー・クルーのアルバムのパロディ。
というかフォトショップで無理やりバンドロゴとかをまんま合成したような
かなりやっつけな仕上がりになっており、もちろん大手レコード会社からのリリースではないが
これが商品として流通している事自体が面白い。
バンドのロゴをジューダス・プリーストのを模したものにしたり、
バズコックスのピート・シェリーの頭に逆十字を配した初期の名盤「MORBID FLORIST」の頃からの
変わらぬ姿勢が伺える。
さて、内容はどうかというと収録されている曲のタイトルやジャケのとおりLAメタルというより
“COCK ROCK”な世界観となっている…
と思いきやその正体はギャング・グリーンである。
CDケースの内側はこんなんだし。
fainner

よく考えてみたらギャング・グリーンは「Fuck In A」という曲もやってる。
「酒、タバコ、クスリ、快楽目的のSEX」の禁止を信条としていたストレート・エッジが猛威をふるっていた
80年代ボストンハードコアシーンで
こんなジャケ
ganggreen-pre.jpeg

のアルバムをリリースして真っ向からケンカを売っていたギャング・グリーンと
政治や社会問題など割と真面目なテーマを扱うバンドが多かった90年代グラインドコア勢の中で
かなりふざけた曲やアートワーク、挑発的な歌詞で異彩を放っていたアナルカントは通じるところがある。
同じボストン出身でセスはもともとハードコアバンドやってたらしいから多分好きなんだろう。
しかしモトリー・クルーとギャング・グリーン、相反するものを2個イチにする発想はやはり鬼才。
惜しい人を亡くしました。
sp

収録曲
Fuck Yeah!
Crankin' My Bands Demo on a Box at the Beach
Loudest Stereo
Kickin' Your Ass and Fuckin' Your Bitch
Hot Girls on the Road
Whiskey, Coke and Sluts
All I Give a Fuck About Is Sex
I'm Gonna Give You AIDS
Yay! It's Pink!
I Wish My Dealer Was Open

Crankin' My Bands Demo on a Box at the Beach が本作のハイライト
「I like girls,I like metal,I live for pussy,I like getting laid」のコーラスが低脳でカッコいい。
曲自体はかなりイカす。

どの曲も辞書を引きつつ解読するとかなり笑えます。
個人的にセスの歌詞はサウスパークに近いユーモアだと思う。
「ジャンゴ 繋がれざる者」
リミュエール兄弟が撮影した世界初の実写映画である「工場の出口」の公開から120年。
成り立ちから映画は商売として発生し、その誕生の瞬間から映画はある意味においては芸術性の到達点に
達しており、それは「映画に未来はない」と語ったリミュエール兄弟の言葉からもわかる。

過去の映画と現在の映画の違いは技術的な差異であり、本質的な部分では変わることがない。
これは商売を基とする創作作品においてほぼ同じことが言えるだろう。
1800年の小説より2013年の小説の方が優れている論拠がどこにあろうか。
文章で創作をするという時代を問わず行え、
原始的と言っても差し支えない行為に進歩性があるとすれば、
それは石に刻んでいたものが羊皮紙とインクに変わり、
原稿用紙と万年筆を経てワープロに取って代わられただけではないだろうか。
近代において人の脳が劇的に進化しているなどとは聞いたことがない以上は、
芸術・創作は製作過程のツールが進化しているだけで、
結局は延々と別パターンの「工場の出口」を模索しているようなものかもしれない。

映画を映画たらんとしているのは、1ショットの連続それがシークエンスを成す様子である。
それで人を集めて金を取り、上映すれば立派な映画の誕生と言える。
これが原初から商売として成立する「映画」だとすれば、
上記でも出した「ある意味においては」芸術性の到達点に達したとはどういう意味か。
映画は商売である以上は観客の要望に答えなければ生き残っていけない。
より刺激的で斬新な作品を求める時代の息吹に呼応したかのような映画が
ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」である。
「工場の出口」から約60年、同じフランスの地から映画の脱構築が始まり
「ある意味において」到達していた映画の芸術性に、観客を置き去りにするかの如く凶暴性を
露骨な形で加味していくのだった。
これで映画の芸術性はその多様性を含め、この時点で完成の域に足を踏み入れている。

ハリウッドで依然、絵空事で幼稚な映画を撮り続けていた同時期、
フランスではヌーベルヴァーグのまさに新しい波が映画を作り変えていたのである。
ハリウッドがこのままでは生き残っていけないことに気づくのは、
ボニー&クライドが銃声と共に蘇り、
1969年にデニス・ホッパーとピーター・フォンダが仕掛けた「イージー・ライダー」が
陰惨なベトナム戦争とそのカウンターカルチャーが見せる幻想の自由を、
ハーレーの轟音を新しい時代の産声の代わりに響かせてみせたからだ。
アメリカン・ニューシネマの到来でハリウッドは無理やり大人になった。

作家性と商売が奇跡的に結びついた70年代で幸せな時を過ごしたハリウッド映画は、
80年代に入ると脳死してしまう。筋肉で考える時代が始まったのだ。
1976年に「ロッキー」がリングに上がることが勝利だと、立ち上がることに意味があるのだと
アメリカン・ニューシネマに対して答えを出してしまって以降、
立ちあがっリぱなしの筋肉は90年代になるまでステロイドを打ち続ける羽目になる。
娯楽として映画が最も充実していた80年代は移動式遊園地のように一過性の哀しい光を放ち、
二度と本当の「インディ・ジョーンズ」が復活しないことを予見していた。

そして90年代。ついにタランティーノの登場である。
オタクとして熱心な映画愛好家であったタランティーノは
好きな映画を組み合わせて映画を作ることに最も成功した人物だろう。
タランティーノの凄いところは、過去の映画の完成度に自覚的にであり
自分の作品に拝借する場合でも、そのまま使用するところではないだろうか。
それでいてタランティーノの映画はタランティーノ映画でしかないところが、やはり凄い。
童貞の頃に脚本を書いた「トゥルー・ロマンス」から最新作「ジャンゴ 繋がれざる者」まで
映画に対しては子供のような純粋さを感じさせる一方、
その風貌と「しゃべりタランティーノ」体質のせいで
ふざけているようにしか見えないところも彼の魅力の一つだろう。
お喋り自体もタランティーノ映画には重要な要素で、
「ジャンゴ 繋がれざる者」でも話の上手さで主導権を握る場面が出てくる。

しかし、この「ジャンゴ 繋がれざる者」がなかなか厄介な映画で、
前作「イングロリアス・バスターズ」で味をしめた、
「タランティーノ自身とは全く関係はないが歴史の溜飲を俺が下げてやるぜ!」方式の第2弾である。
上映時間も165分とタラ映画史上もっとも長く、正直言って単調に感じる場面も少なく無い。
マカロニ・ウェスタンに精通した人と、黒人なら165分でも短いと感じるかもしれないが、
一般的な黄色人種にはかなり長い。
前作でのヒトラーをぶっ殺すといったスケールのでかい嘘ではなく、奴隷商人をぶっ殺すといった
局地的な復讐劇であることが功を奏した箇所と、逆に「早くぶっ殺せよ!」とスクリーンに向かって
叫んでしまいそうな箇所が交互にきて、緊張と緩和も過ぎれば退屈といった趣である。
ただ、面白くなかったとは言い難く、退屈とイライラもラストの殺戮でのカタルシスのためだとすれば
納得いかないこともないし、そもそもタランティーノの映画ってこんな感じだったな思い出させてくれる
映画であることは間違いない。

タラ映画の中でもマカロニ・ウェスタンと黒人奴隷の歴史といったハードルの低くないリテラシーを要求する、
「ジャンゴ 繋がれざる者」がタランティーノ史上最大のヒット作となった要因は
黒人奴隷とマカロニ・ウェスタンを組み合わせる見世物的効果を最大限に発揮した結果であり、
タランティーノ以外の監督が撮れば怒られるような物を娯楽作品として提供したからだろう。
映画史に照らし合わせれば至極まっとうな方法論で、リミュエール兄弟から続く見世物として正しい
映画なのである。
面白い面白くないは別として、タランティーノの映画を観る事は「映画史」を観ることに通じ、
映画の成立から脱構築、娯楽とカルト化といった様々な変遷を辿ることが出来るのだ。
「ジャンゴ 繋がれざる者」でタランティーノが爆死するシーンにCGは使われていない。
タランティーノがCGを嫌っているからだ。
おそらく彼が敬愛する映画たちにCGのように嘘の上塗りをする技術は存在しないからだろう。

「パルプ・フィクション」でジミー役のタランティーノが
「俺の家の前に“ニガーの死体預かります”と看板が立ってたか?」
「なぜなかったかわかるか?」
「うちはニガーの死体を預からねえからだ!」
と黒人の死体を運んできたトラボルタとソミュエル・L・ジャクソンに叫ぶ。
そんなタラが黒人奴隷の死体を背負って撮った「ジャンゴ 繋がれざる者」は
タランティーノが大人になってしまった部分と、いつまでも変わらない無邪気なオタクの部分が
混じりあった彼の過渡期の映画とも観てとれる。
だからこそタランティーノは次作の「キルビル3」で新しいタランティーノを見せてくれるはずだと、
どうしようもなく期待してしまう。

その生誕の瞬間から崩壊前夜に自分を位置づけていた映画は、たえず崩壊前夜を生きているという
自覚の深まりとしてみずからの歴史を刻む。(蓮實重彦「映画崩壊前夜」序文)
リミュエール兄弟の言葉通り、映画は進化することはないが時代を反映しその存在を維持し続けている。
たとえ崩壊したとしてもタランティーノがいるから大丈夫だ。
きっと上手に組み合わせて楽しい映画を撮ってくれるはずだから。
「ジャンゴ 繋がれざる者」は最高!と喝采を送るタイプの映画ではないが、
観ておかなければならない映画であることは確かである。
あと、ニガーなんて言葉は使っちゃダメだ。

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「迷宮」 清水義範
ミステリ小説と一口に言っても、それはもう膨大な、
両手だけでは数えきれない程の種別があることをご存知でしょうか?
海外ではノックスの十戒、ヴァンダインの20則に始まり、日本ではそれを編纂し、紹介した江戸川乱歩の幻影城。
そこからも発展を続け、このルールに則る形で、あるいは破る形で数多くの作品が世に生み出されているのは発刊数を見ることもなく、想像に難くないと思います。

その中でも私が特に好きなものが推理合戦もの(こういう分類がなされているかはいざ知らず)です。
古くはバークリーの「毒入りチョコレート事件」中井英夫氏の「虚無への供物」、最近では西澤保彦氏の「麦酒の家の冒険」どれも何度読んでも興奮します。
特に虚無への供物はゴシックテイストを基調とした舞台装置を使い、小説中小説という体で死者が蘇りを果たし、犯人を探すという多重構造で、あたかも先ほど見ていた模様がこの瞬間には別のものに移り変わる万華鏡の様な趣きを持っています。更に人物描写も推理に色濃く影響してくる様はクノーの「文体練習」をも彷彿とさせる企みを感じずにはおれません。
しかしながらこうした作品の都合上、叙述をもちいたトリックや単純に目くらまし的な要素を掛け合わせた最近のミステリもどきの様にぽこぽこ生まれていくものではないのも事実です。
そんな大作を渇望して病まない最中に出会ったのが、この今から紹介しようとしている清水義範氏の「迷宮」なわけです。

そもそも清水何某とは誰なのかという人に極めて簡潔に説明をしようとすれば、ものまね作家と言えば何となく想像もつきやすいかと思います。
ものまねと単純に捉えれば何か簡単な、パロったりなんかしちゃってる作家なのかという印象にもなりましょうが、僕の認識では、そうでしたというのが正直なところです。
どちらかといえばミステリを真正面から捉えるのではなく、斜に構えておちゃらけて、それでいて芯は外さない巧妙さを持ち合わせた作家とでも言いましょうか。
腰を据えてがっつり読むぞ。といった作風ではなくて、あぁなんだか暇を持て余してしまったので書店にでも行って一日で読めるカロリー低めのやつでもないかしらん。
といった感じで読む作家。だと思っていました。
こんな説明でどんな作家さんなんだろうと興味を持った方は一度検索にでもかけてもらってタイトルを見てもらえば容易く雰囲気は伝わると思います。
そんな作家さんが、何やら意味深長なタイトルで、あらすじにもいっさいのおちゃらけを感じさせない調子で挑んだこの作品に過度な期待をするなと言う方が無理な話です。
なので大いなる期待を胸に僕はこいつを読了したわけですが、その感想はというと大いにおもしろかったと言っちゃいます。
そもそもこの作品の犯罪には表面的な謎というものは存在しません。
犯罪にはというところに着目です。犯人は物語の最初の最初で判明しています。
じゃあそれで終わりじゃん。というなかれ。謎はそこではありませぬ。
この物語、「私」という語り手が記憶を失っている状態で、ある事件記事を実験治療という名目で読まされていきます。
あぁ怪しい。怪しさ満開です。
その治療を施す医者っぽい風情の人物も、誰だかわかりません。
つまり、物語の現在を型成す主役とその相方の二人が一体誰なのかわからないのです。
さぁもう気になって仕方がありません。読んでいる最中もあぁこれはミスリードされているのではないだろうか?
いやいやこれにはひっかからないぞ。こいつが「私」なのだろう。なんてグイグイ引き込まれていきます。
こういった趣きの話は文章でなければ成立しないおもしろさです。
見えない部分が大きいほど、小説というのはおもしろさがいや増すのです。
事件のあらましについては「私」が読まされている文献を私が読むという形なので、犯人もわかっていることですし、いやおうなしに犯罪はなぜおこったのか?に着目されます。
当面「私」や医者っぽい人は置いておかれるわけです。だってそれは最後のお楽しみなわけですから。
しかも事件は今日的であり、現代社会の病的な犯罪で、その犯罪にまきこまれた人物達の人間性や社会性なんかを浮き彫りにしていきます。その人間性の問いかけがまた話を一段と不気味に深く落とし込んでいくのです。
取り扱われた犯罪なんかは最近もっぱらなりを潜めた感じの、通り魔的な衝動的殺人にとってかわられた感のある「猟奇的殺人」なわけですが、そこはあぁこの手の類のやつね。といった感想が正直なところでした。
孤独に苛む現代の青年が起こしたちょっとばかし考えられないキチガイ犯罪。
それはどうでもいい。ほんとどうでもいい。別にとやかく言う事もないですが、昔っからこういう犯罪はあったし、それを現代社会の産んだ犯罪なんだと声高に喚くのは間違ってはいないけれでも、正しくもないというのが実情ではないのかなと思います。
作者も作中でそんなことを書いていましたし。人は自分の関係しない所で起こった事件に対して簡単な、耳に心地よい、誰もが納得できる答えをチョイスするのですから。
そんなことよりもこの小説が先にも述べた万華鏡的企みをもってして挑んだ作品だというのは、さも今日的な犯罪を描いたふりをして、まったくそうではない別な意図のある犯罪。そもそもそれを犯罪だといってしまってもいいのかというミステリへの逆説的アプローチを仕掛けている事に大いに畏敬の念を感じるわけです。
全てをここに書き記す無粋な行為が出来ないために、持って回った言い方になるのは承知ですが、犯人が犯罪を起こす動機を誰かの恣意でいか様にも変幻させられるぞ。というのが私がこの小説から汲み取ったホワイダニットへの現代的解釈なのではないでしょうかってことなんですよ!
先に述べた通り、人というのはある程度限られた情報や体験のなかで、自分の感じた、見た、聞いたことへ折り合いをつけて生きていくものです。それが正解答かはさていおいて、そういうものだと割り切るものです。
だとすれば、そこに記憶喪失のというまっしろな、何も描かれていないキャンバスがあったとして、そこに人は何も描かずにおけるのでしょうか。
記録された物が織りなす万華鏡が過去のものであるならば、無垢なキャンバスになにかを投じることが、新たな万華鏡になりはしないでしょうか。
私は読後奇妙な感覚を覚えました。

そこにいてそこに非ざるものと、ここにあってここに非ざるものの違いというものがきっと少しわからなくなったからに違いありません。

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