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「迷宮」 清水義範
ミステリ小説と一口に言っても、それはもう膨大な、
両手だけでは数えきれない程の種別があることをご存知でしょうか?
海外ではノックスの十戒、ヴァンダインの20則に始まり、日本ではそれを編纂し、紹介した江戸川乱歩の幻影城。
そこからも発展を続け、このルールに則る形で、あるいは破る形で数多くの作品が世に生み出されているのは発刊数を見ることもなく、想像に難くないと思います。

その中でも私が特に好きなものが推理合戦もの(こういう分類がなされているかはいざ知らず)です。
古くはバークリーの「毒入りチョコレート事件」中井英夫氏の「虚無への供物」、最近では西澤保彦氏の「麦酒の家の冒険」どれも何度読んでも興奮します。
特に虚無への供物はゴシックテイストを基調とした舞台装置を使い、小説中小説という体で死者が蘇りを果たし、犯人を探すという多重構造で、あたかも先ほど見ていた模様がこの瞬間には別のものに移り変わる万華鏡の様な趣きを持っています。更に人物描写も推理に色濃く影響してくる様はクノーの「文体練習」をも彷彿とさせる企みを感じずにはおれません。
しかしながらこうした作品の都合上、叙述をもちいたトリックや単純に目くらまし的な要素を掛け合わせた最近のミステリもどきの様にぽこぽこ生まれていくものではないのも事実です。
そんな大作を渇望して病まない最中に出会ったのが、この今から紹介しようとしている清水義範氏の「迷宮」なわけです。

そもそも清水何某とは誰なのかという人に極めて簡潔に説明をしようとすれば、ものまね作家と言えば何となく想像もつきやすいかと思います。
ものまねと単純に捉えれば何か簡単な、パロったりなんかしちゃってる作家なのかという印象にもなりましょうが、僕の認識では、そうでしたというのが正直なところです。
どちらかといえばミステリを真正面から捉えるのではなく、斜に構えておちゃらけて、それでいて芯は外さない巧妙さを持ち合わせた作家とでも言いましょうか。
腰を据えてがっつり読むぞ。といった作風ではなくて、あぁなんだか暇を持て余してしまったので書店にでも行って一日で読めるカロリー低めのやつでもないかしらん。
といった感じで読む作家。だと思っていました。
こんな説明でどんな作家さんなんだろうと興味を持った方は一度検索にでもかけてもらってタイトルを見てもらえば容易く雰囲気は伝わると思います。
そんな作家さんが、何やら意味深長なタイトルで、あらすじにもいっさいのおちゃらけを感じさせない調子で挑んだこの作品に過度な期待をするなと言う方が無理な話です。
なので大いなる期待を胸に僕はこいつを読了したわけですが、その感想はというと大いにおもしろかったと言っちゃいます。
そもそもこの作品の犯罪には表面的な謎というものは存在しません。
犯罪にはというところに着目です。犯人は物語の最初の最初で判明しています。
じゃあそれで終わりじゃん。というなかれ。謎はそこではありませぬ。
この物語、「私」という語り手が記憶を失っている状態で、ある事件記事を実験治療という名目で読まされていきます。
あぁ怪しい。怪しさ満開です。
その治療を施す医者っぽい風情の人物も、誰だかわかりません。
つまり、物語の現在を型成す主役とその相方の二人が一体誰なのかわからないのです。
さぁもう気になって仕方がありません。読んでいる最中もあぁこれはミスリードされているのではないだろうか?
いやいやこれにはひっかからないぞ。こいつが「私」なのだろう。なんてグイグイ引き込まれていきます。
こういった趣きの話は文章でなければ成立しないおもしろさです。
見えない部分が大きいほど、小説というのはおもしろさがいや増すのです。
事件のあらましについては「私」が読まされている文献を私が読むという形なので、犯人もわかっていることですし、いやおうなしに犯罪はなぜおこったのか?に着目されます。
当面「私」や医者っぽい人は置いておかれるわけです。だってそれは最後のお楽しみなわけですから。
しかも事件は今日的であり、現代社会の病的な犯罪で、その犯罪にまきこまれた人物達の人間性や社会性なんかを浮き彫りにしていきます。その人間性の問いかけがまた話を一段と不気味に深く落とし込んでいくのです。
取り扱われた犯罪なんかは最近もっぱらなりを潜めた感じの、通り魔的な衝動的殺人にとってかわられた感のある「猟奇的殺人」なわけですが、そこはあぁこの手の類のやつね。といった感想が正直なところでした。
孤独に苛む現代の青年が起こしたちょっとばかし考えられないキチガイ犯罪。
それはどうでもいい。ほんとどうでもいい。別にとやかく言う事もないですが、昔っからこういう犯罪はあったし、それを現代社会の産んだ犯罪なんだと声高に喚くのは間違ってはいないけれでも、正しくもないというのが実情ではないのかなと思います。
作者も作中でそんなことを書いていましたし。人は自分の関係しない所で起こった事件に対して簡単な、耳に心地よい、誰もが納得できる答えをチョイスするのですから。
そんなことよりもこの小説が先にも述べた万華鏡的企みをもってして挑んだ作品だというのは、さも今日的な犯罪を描いたふりをして、まったくそうではない別な意図のある犯罪。そもそもそれを犯罪だといってしまってもいいのかというミステリへの逆説的アプローチを仕掛けている事に大いに畏敬の念を感じるわけです。
全てをここに書き記す無粋な行為が出来ないために、持って回った言い方になるのは承知ですが、犯人が犯罪を起こす動機を誰かの恣意でいか様にも変幻させられるぞ。というのが私がこの小説から汲み取ったホワイダニットへの現代的解釈なのではないでしょうかってことなんですよ!
先に述べた通り、人というのはある程度限られた情報や体験のなかで、自分の感じた、見た、聞いたことへ折り合いをつけて生きていくものです。それが正解答かはさていおいて、そういうものだと割り切るものです。
だとすれば、そこに記憶喪失のというまっしろな、何も描かれていないキャンバスがあったとして、そこに人は何も描かずにおけるのでしょうか。
記録された物が織りなす万華鏡が過去のものであるならば、無垢なキャンバスになにかを投じることが、新たな万華鏡になりはしないでしょうか。
私は読後奇妙な感覚を覚えました。

そこにいてそこに非ざるものと、ここにあってここに非ざるものの違いというものがきっと少しわからなくなったからに違いありません。

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