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「ジャンゴ 繋がれざる者」
リミュエール兄弟が撮影した世界初の実写映画である「工場の出口」の公開から120年。
成り立ちから映画は商売として発生し、その誕生の瞬間から映画はある意味においては芸術性の到達点に
達しており、それは「映画に未来はない」と語ったリミュエール兄弟の言葉からもわかる。

過去の映画と現在の映画の違いは技術的な差異であり、本質的な部分では変わることがない。
これは商売を基とする創作作品においてほぼ同じことが言えるだろう。
1800年の小説より2013年の小説の方が優れている論拠がどこにあろうか。
文章で創作をするという時代を問わず行え、
原始的と言っても差し支えない行為に進歩性があるとすれば、
それは石に刻んでいたものが羊皮紙とインクに変わり、
原稿用紙と万年筆を経てワープロに取って代わられただけではないだろうか。
近代において人の脳が劇的に進化しているなどとは聞いたことがない以上は、
芸術・創作は製作過程のツールが進化しているだけで、
結局は延々と別パターンの「工場の出口」を模索しているようなものかもしれない。

映画を映画たらんとしているのは、1ショットの連続それがシークエンスを成す様子である。
それで人を集めて金を取り、上映すれば立派な映画の誕生と言える。
これが原初から商売として成立する「映画」だとすれば、
上記でも出した「ある意味においては」芸術性の到達点に達したとはどういう意味か。
映画は商売である以上は観客の要望に答えなければ生き残っていけない。
より刺激的で斬新な作品を求める時代の息吹に呼応したかのような映画が
ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」である。
「工場の出口」から約60年、同じフランスの地から映画の脱構築が始まり
「ある意味において」到達していた映画の芸術性に、観客を置き去りにするかの如く凶暴性を
露骨な形で加味していくのだった。
これで映画の芸術性はその多様性を含め、この時点で完成の域に足を踏み入れている。

ハリウッドで依然、絵空事で幼稚な映画を撮り続けていた同時期、
フランスではヌーベルヴァーグのまさに新しい波が映画を作り変えていたのである。
ハリウッドがこのままでは生き残っていけないことに気づくのは、
ボニー&クライドが銃声と共に蘇り、
1969年にデニス・ホッパーとピーター・フォンダが仕掛けた「イージー・ライダー」が
陰惨なベトナム戦争とそのカウンターカルチャーが見せる幻想の自由を、
ハーレーの轟音を新しい時代の産声の代わりに響かせてみせたからだ。
アメリカン・ニューシネマの到来でハリウッドは無理やり大人になった。

作家性と商売が奇跡的に結びついた70年代で幸せな時を過ごしたハリウッド映画は、
80年代に入ると脳死してしまう。筋肉で考える時代が始まったのだ。
1976年に「ロッキー」がリングに上がることが勝利だと、立ち上がることに意味があるのだと
アメリカン・ニューシネマに対して答えを出してしまって以降、
立ちあがっリぱなしの筋肉は90年代になるまでステロイドを打ち続ける羽目になる。
娯楽として映画が最も充実していた80年代は移動式遊園地のように一過性の哀しい光を放ち、
二度と本当の「インディ・ジョーンズ」が復活しないことを予見していた。

そして90年代。ついにタランティーノの登場である。
オタクとして熱心な映画愛好家であったタランティーノは
好きな映画を組み合わせて映画を作ることに最も成功した人物だろう。
タランティーノの凄いところは、過去の映画の完成度に自覚的にであり
自分の作品に拝借する場合でも、そのまま使用するところではないだろうか。
それでいてタランティーノの映画はタランティーノ映画でしかないところが、やはり凄い。
童貞の頃に脚本を書いた「トゥルー・ロマンス」から最新作「ジャンゴ 繋がれざる者」まで
映画に対しては子供のような純粋さを感じさせる一方、
その風貌と「しゃべりタランティーノ」体質のせいで
ふざけているようにしか見えないところも彼の魅力の一つだろう。
お喋り自体もタランティーノ映画には重要な要素で、
「ジャンゴ 繋がれざる者」でも話の上手さで主導権を握る場面が出てくる。

しかし、この「ジャンゴ 繋がれざる者」がなかなか厄介な映画で、
前作「イングロリアス・バスターズ」で味をしめた、
「タランティーノ自身とは全く関係はないが歴史の溜飲を俺が下げてやるぜ!」方式の第2弾である。
上映時間も165分とタラ映画史上もっとも長く、正直言って単調に感じる場面も少なく無い。
マカロニ・ウェスタンに精通した人と、黒人なら165分でも短いと感じるかもしれないが、
一般的な黄色人種にはかなり長い。
前作でのヒトラーをぶっ殺すといったスケールのでかい嘘ではなく、奴隷商人をぶっ殺すといった
局地的な復讐劇であることが功を奏した箇所と、逆に「早くぶっ殺せよ!」とスクリーンに向かって
叫んでしまいそうな箇所が交互にきて、緊張と緩和も過ぎれば退屈といった趣である。
ただ、面白くなかったとは言い難く、退屈とイライラもラストの殺戮でのカタルシスのためだとすれば
納得いかないこともないし、そもそもタランティーノの映画ってこんな感じだったな思い出させてくれる
映画であることは間違いない。

タラ映画の中でもマカロニ・ウェスタンと黒人奴隷の歴史といったハードルの低くないリテラシーを要求する、
「ジャンゴ 繋がれざる者」がタランティーノ史上最大のヒット作となった要因は
黒人奴隷とマカロニ・ウェスタンを組み合わせる見世物的効果を最大限に発揮した結果であり、
タランティーノ以外の監督が撮れば怒られるような物を娯楽作品として提供したからだろう。
映画史に照らし合わせれば至極まっとうな方法論で、リミュエール兄弟から続く見世物として正しい
映画なのである。
面白い面白くないは別として、タランティーノの映画を観る事は「映画史」を観ることに通じ、
映画の成立から脱構築、娯楽とカルト化といった様々な変遷を辿ることが出来るのだ。
「ジャンゴ 繋がれざる者」でタランティーノが爆死するシーンにCGは使われていない。
タランティーノがCGを嫌っているからだ。
おそらく彼が敬愛する映画たちにCGのように嘘の上塗りをする技術は存在しないからだろう。

「パルプ・フィクション」でジミー役のタランティーノが
「俺の家の前に“ニガーの死体預かります”と看板が立ってたか?」
「なぜなかったかわかるか?」
「うちはニガーの死体を預からねえからだ!」
と黒人の死体を運んできたトラボルタとソミュエル・L・ジャクソンに叫ぶ。
そんなタラが黒人奴隷の死体を背負って撮った「ジャンゴ 繋がれざる者」は
タランティーノが大人になってしまった部分と、いつまでも変わらない無邪気なオタクの部分が
混じりあった彼の過渡期の映画とも観てとれる。
だからこそタランティーノは次作の「キルビル3」で新しいタランティーノを見せてくれるはずだと、
どうしようもなく期待してしまう。

その生誕の瞬間から崩壊前夜に自分を位置づけていた映画は、たえず崩壊前夜を生きているという
自覚の深まりとしてみずからの歴史を刻む。(蓮實重彦「映画崩壊前夜」序文)
リミュエール兄弟の言葉通り、映画は進化することはないが時代を反映しその存在を維持し続けている。
たとえ崩壊したとしてもタランティーノがいるから大丈夫だ。
きっと上手に組み合わせて楽しい映画を撮ってくれるはずだから。
「ジャンゴ 繋がれざる者」は最高!と喝采を送るタイプの映画ではないが、
観ておかなければならない映画であることは確かである。
あと、ニガーなんて言葉は使っちゃダメだ。

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